混沌の均衡(草稿)

2025年2月13日
U.k/Re_F


快、不快、これを正しさとして評価が為される社会にはもううんざりだ。快、不快を基盤とし、否、遍く価値が相対化され、そこに正解不正解、善悪が揺るがぬ事実として付与される虚妄の愚考には飽き飽きした。正しさなどというものは何処にもない。愚鈍な人類が産み堕としてしまった不遜な誇大妄想に過ぎない。いや、これは正確ではないかもしれない。おそらく法則とその演繹、事象のみがそういった意味では正しさであろう。にも関わらず、社会はそんなもの見向きもせず、自慰行為にも等しい相対化された価値の創出、そして歪んだ視点による軽薄な短絡を指数関数的に進めている。時間大域的で定量的、そういった瞳が世界にピンを刺す為にはやはり長期的な視点が必要。だがそんなものはもはや人類社会では価値が下がり続け、事実上の悪として相対化されている。そういった高次の視点から原始的な基準に堕ちた先に構造化された、快、不快、これを正しさとする社会にはうんざりだ、という意味だ。起こり得る全ての戦争に正義があって、悪があって、意味があるという世界は、もういい。
ただここで、自分としては快、不快、これを否定したい訳ではないことを明記する。むしろ自分は理性を否定し、自我、衝動、快楽、そういったものへ真っ直ぐな世界を望んでいる。そこに正義も悪も、相対化された価値も何もいらない。では正しさとは一体何だ?答えは我々がそれをそうと認識できないだけで、我々を満たす全てである。即ち正しさとは宇宙だ。正しさとは星々の耀きだ。正しさとは生命だ。正しさとは細胞だ。正しさとは分子だ。正しさとは原子だ。正しさとは量子だ。正しさとは時空だ。そこに正義も悪もない。ただただ毅然として世界そのものが事象として存在しているだけだ。自分は原子の凝縮、生命、我々は宇宙の一片。相対化された正しさという束縛のない、真に混沌の世界。あらゆる法則の演繹、その衝突、即ち戦争の果て。この意味も、価値もない戦争が、物理法則が全てを創り出した。これが自分の言う真の混沌である。
何が言いたいかと言うと、自分は戦争がしたいということだ。意味も、価値も、正しさも、あらゆる相対化されたものを持ち得ない、無意味な戦争をしたい。その戦争の果てにある快楽が己にとっての価値なのだから。だからこそその快楽の根源に、快、不快を正しさとして価値を、意味を付与する社会に飽き飽きしているのだ。